町田で月イチでアートが楽しめる「パリコレッ!ギャラリー」第33弾は、
町田市在住の画家:ながさわたかひろさんの個展を開催します。
様々な著名人のポートレートやプロスポーツの記録を、独自のスタイルで描き続けているながさわたかひろさん。
自身のコンプレックスを打破すべく真っ正面から“絵”と向き合い、
そして“芸術は応援になる”を体現し続けているながさわさんのこれまでの軌跡を余すところなくお伺いしました。
◾️ながさわさんが絵を描き始めたきっかけはなんですか?
高校時代美術部だったというのが大きいですね。入学して最初に入ったのはサッカー部で、練習についていけなくてすぐ辞めたんですけど、サッカー部が練習しているグラウンドから美術室が見えて、かわいい子がいたんですよ。(笑)だから美術部に入ったきっかけはその子と仲良くなれたらいいなくらいの軽い気持ちでした。それでいざ入部したら油絵を最初描かされて、やってみるとそれなりに面白くて手応えがあって、そこからですね。
◾️ながさわさんは元々版画家として活動されていましたが、現在のスタイルに行き着いた経緯はどのようなものでしたか?
僕は武蔵野美術大学の油絵学科出身なんですけど、美大に入る前に三浪していて、美大受験のために描く絵っていうのは短時間で無理矢理仕上げるという描き方なので、それを3年間やり続けると、絵が腐ってくるというか、それでやっと美大に入っても、その頃にはもう絵なんて描きたくなくなってしまって、在学中は絵を全然描いていませんでした。当時の油絵学科は3年次に専攻が分かれるシステムだったので、それで 僕は版画を専攻するんですけど、それは“絵が描けない”という消極的な理由からだったんです。
20代の頃は、大学院に進んで研究室に残っていて、「色」の研究をしたり、版画のシステムを使った抽象的でミニマルな作品を作っていました。当時は「分かる人だけ理解してくれればいい」と思っていた所があり、発表しても美術に関心のある人がポツポツやってくるだけで、ほぼ無反応の状態でした。結局、誰にも伝わらないことを続けていたんです。30歳になった時に、こんなことでは先がないなと思い、もう一度“描く”ということからやり直そうとして、『三十路のビール』という展覧会を企画しました。
この展覧会は、会場に石膏像を5体置いて、僕が木炭デッサンしているところをお客さんに見てもらうというものです。そして、一枚完成する毎に「講評会」をやって、色んな人から意見をもらって、そしてまた次のデッサンに取り掛かるという、要は“描こうと思ってるけど描けない人物”を見てもらう展覧会でした。2日で1枚(1体分)のペースで仕上げるスケジュールだったのですが、これは美大受験と同じペースで、受験の時に抱えたトラウマを打破するために、あえて当時と同じ状況下に身を投じることで克服しようとしたんです。それで、いざお客さんが来ると上手く描けないからすごく恥ずかしいんですよ。でもそのプレッシャー故に、ちゃんと仕上げないとと思うわけです。そして、講評会には知り合いの音楽家とか予備校の講師とか、プロの人に来てもらって、さらにお客さんにも意見を出してもらいます。言いたいことをバンバン言ってもらって、翌日からまた新しい一枚を描き始めます。そうして描き上げたデッサンは1枚目よりは2枚目の方が、2枚目よりは3枚目の方が、ちょっとずつ良くなってるんですよ。それで5枚全て描き終えた最後の講評会の時の手応えがすごく良かったんです。自分としては「やればやるだけ描けるようになる」という自信に繋がって、それがすごく大事で嬉しかったんです。なので、本当の意味で絵を描き始めたのは、この『三十路のビール』からかもしれません。
ちなみに、何故『三十路のビール』というタイトルにしたかというと、講評会の時にみんなでビールを飲みながらやるんですよ。だからちょっと言いにくそうにしてる人でもお酒の力を借りて本音を言ってもらおうと思ったんです。それで僕も飲むから、『三十路のビール』っていう(笑)
◾️《愛の肖像画》シリーズや過去の《に・褒められたくて》シリーズでは、講演会やサイン会などに赴き、「本人に直接会って制作許可を得る」というシンプルかつストレートな方法で様々な著名人の肖像画を制作されていますが、これらのシリーズに込めている想いを教えてください。
《に・褒められたくて》シリーズは主に著名人を描いていて、好きな人や憧れの人への想いを込めた肖像画を版画で仕上げ、ご本人に褒めてもらおうとするシリーズです。僕はサイン会などに赴いても、いざご本人を前にするとあがっちゃって固まってしまうんです。それで顔を真っ赤にして何も話せずにサインだけもらって帰るっていう。でも同じ現場にはご本人と対峙しても流暢に話せる人がいたりして、それが本当に羨ましくて。それで話せない自分に嫌気が差して、自分を変えたいという気持ちからこのシリーズを始めました。その人のことを考えながら想いを込めて描いた肖像画を本人に披露した時、たとえ自分は一言も話せなくても「絵が自分の代わりに何か語ってくれるはずだ」と思ったんです。著者へのアプローチは、サイン会などで「あなたを描かせてください」という一言だけをとにかく言うと決めていました。そして承諾を得られたら写真を撮らせてもらって帰るという流れです。「ご本人に褒めてもらうためにはしっかり仕上げなきゃいけない」という気持ちで挑むんですけどこの気持ちが大事で、20代の頃の、自分の作品が人に伝わらないという辛さを振り返っては、“想いを伝えたい”という一心でこのシリーズに取り組んでいました。
一番最初に描いたのは、ラジオパーソナリティの吉田照美さんです。照美さんのラジオは中学の頃からずっと聴いていて好きでした。番組(*1)内の企画で「ようかんマン」というコーナーがあって、リスナーに「ここにようかんマンに来てほしい!」というのを募集して、希望の場所にようかんマンが現れるっていう。「ようかんマン」というのは照美さんではないんですが、とにかく“羊羹を持ったリポーター”が現れて羊羹をくれるというもので、ちょうど高円寺で展示をやっていた時に、「高円寺で展覧会をやっているから来てほしい」と番組にはがきを送ったんですよ。そうしたらようかんマンが来てくれて、生放送で照美さんとやりとりをしたんです。その時に「照美さんを描かせてください!」とお願いしたんです。そうしたら快諾してくれて、翌週文化放送に行って直接照美さんにお会いして写真を撮らせてもらい、「完成したらまたお持ちします」と言って帰ったんです。それからはものすごいプレッシャーを感じながら、ひと月くらいで仕上げました。そして出来た銅版画を見てもらった時の吉田照美さんのリアクションが良くて、すごく嬉しかったんですよ。それが一枚目の作品です。
自分としてはこの満足感で完結しているんですが、さらに相手が僕の絵を見て感じたことを絵の中に直接書いてもらったら、それは描いた方と描かれた方のやりとりが見える“アート”になるんじゃないかなと思ったんです。全ての作品を、精一杯心を込めて描くことを繰り返していたら、やっぱり絵は人に何かを伝えられる力があるなと信じられるようになりました。しかしながら、相変わらず僕は絵を介在しないと全く人と話せないままです。(笑)
(*1)「吉田照美のやる気MANMAN!」:1987〜2007年にかけて文化放送で放送されていたラジオ番組。吉田照美と小俣雅子がMCを務め、昼番組でありながら深夜放送のような内容を盛り込み、特に20〜30代から強い支持を集めた。
◾️《に・褒められたくて》シリーズや今回展示される《愛の肖像画》シリーズで特に思い出に残っているエピソードはありますか?
《愛の肖像画》シリーズは、《に・褒められたくて》と同様の流れで制作していますが、こちらは版画ではなく、鉛筆画や水彩画の一点ものです。思い出は本当に1枚1枚、それぞれにあります。僕の芸術活動は描いている題材上、基本的にお金にならないものがほとんどで、やればやるほど生活が苦しくなるのですが、タレントのおすぎさんを描かせてもらった時に、「アンタ、お金のことも考えなきゃダメよ!ちゃんと払うんだから請求しなさいよ!」と叱咤激励されました。その時に、「嗚呼、職業ってそういうことなんだな」と思いましたね。それから笑芸能の伝道師、高田文夫さんにはずっとお世話になっていて、今でも時々お会いしてご飯をご馳走になっています。いろんな人から「なんで売れない(売ることができない)のに描くんだ」って聞かれたりもするんですけど、僕にとっては“お金にならないからやらない”っていう考え方があんまりピンと来なくて、とはいえそんなことを言っていたら生活できないんですけど、でもやっぱりそういう考え方になっちゃってますね。アウトサイダーアートが素晴らしいと言われる理由は、その人が純粋に描きたいものを描いているからだと思うし、そういう作品には全面的に共感できます。それに近いのかもしれません。
ただ、絵が完成してご本人に見せに行く時にウキウキしたことなんて一度もなくて、対面するのは本当に嫌で、緊張しすぎて前の日なんかお腹痛くなったりなんかして…でも気持ちは伝えたいし、この愚行には意義がある!という想いがあるからどうにかして行くんですけど、そうやってなんとかコメントを記していただいている時が唯一嬉しい時間です。相手の反応が目に見えてわかるのは何よりの喜びなんです。で、これって誰かの励みにもなるとも思っていて、少なくとも20代の頃の迷走していた自分の励みにはなったと思うし、だから僕はこれらの“作品”をしっかりと展示して発表しないといけないと思って活動を続けています。
◾️《1,000人の肖像画》はその名の通り総数1,000枚の作品ということですが、こちらはこれまでの作品からテイストがガラッと変わっていますが、どのような作品ですか?
《1,000人の肖像画》は2020年にコロナ禍に突入した時に始めたものです。この状況がいつ終わるのかわからなかったこともあって、これまでやったことのないやり方で取り組んでみようとして始めたものでした。自分は普段、ものを描くときは、陰影から描いていて、写実的な表現になってくることが多いんですけど、それを敢えて排除して描いてみようと思いました。陰影を使わずに人を描くことで、何か新しい手法を手にできるのではないかという期待もありました。これまでこういう描き方はやったことがなかったのですが、どうせ人と会うことができない期間が続くのならば、その間ずっと続けることで描けるようになろう!と、コロナ禍を前向きに捉えるようにしました。でもやっぱり、やってみるとなかなか似ないんですよ!鉛筆で線を描いて、アクリル絵の具で塗っていくんですけど、描いては消してを何度も繰り返して、シンプルなんですけど、似てくるまで少なくとも1作品につき3時間はかかっちゃうんですよね。毎日苦しみながら描いていました。誰を描くかはニュースから持ってきたり、あくまで個人的なトピックから選んだりしています。毎日やっているとどうしてもネタがない日も出てきて、そんな時は、その日見た映画とかテレビ、ラジオとかに関連づけて搾り出していました。
上段左から:志村けん/小池百合子/宮藤官九郎
中段左から:カマラ・ハリス/大谷翔平/堺雅人
下段左から:村上宗隆/平野美宇/平野ノラ
◾️今回展示される《サッカーJ画報》の原初とも言える作品が《プロ野球画報》という作品とのことですが、プロスポーツの作品を描こうと思ったきっかけはなんだったのですか?
《に・褒められたくて》シリーズで、東北楽天ゴールデンイーグルスの野村克也監督を描いたとき、その返答として監督の著書に書かれてある人生訓を記してくれたのですが、その最後の一節が抜けていて、その部分を空けて返されたんです。その場では舞い上がっているので分からなかったのですが、帰宅してそれに気づき「これはノムさんからのメッセージだ」と受け止めました。そんな矢先に野村監督が来季限りで引退するという報道があって、すごくショックを受けたんですけど、そのラストシーズンが野村楽天の4年目だったので、じゃあ野村大学(*2)で学んだ卒業制作として試合を描くことで一緒に戦おうと思ったんです。毎試合、印象に残ったシーンを9つピックアップして銅板に描くという作業を144試合続けてみようと。プロ野球はほぼ毎日あるので、試合の前に前日の試合を9コマ描いてその日の試合に挑み、翌日また9コマ描く…ということを続けました。銅版画なので、絵を反転して描かないといけないのと、試合の状況も文字情報として入れているのでそれも鏡文字で書かないといけない。毎日ともなるとトレーシングペーパーに転写して版に描き直すという時間もないから、全て直に反転して描かなければならない。当然、難しい作業になるのですが、1試合目よりも2試合目、2試合目よりも3試合目…と徐々に描ける(書ける)ようになっていきます。その様子が絵からも見てとれて、それがまた面白いんですよ。
(本来は最後に締めの一文「運命が変われば人生が変わる」が入ります)
1枚に対して8試合分の絵を描いてそれをざっと並べると最終的に144試合が18枚に収まるんです。野村監督の背番号は19番で、楽天がクライマックスシリーズまで進出できれば、19枚でフィニッシュできる計算でした。それをまとめて版画集にして、もう一度野村監督のところへ持っていこうと思ったんです。そうすれば《野村克也に褒められたくて》で欠けていた言葉がなんなのかということが見えてくるんじゃないかと。結果的に楽天はクライマックスシリーズに進出し、最終的にはファイナルシリーズで日ハムに負けてしまうんですけど、試合後、野村監督を讃える両チームの選手入り乱れての監督胴上げでシーズンが終わったんですよ。それで、19枚目の最後のひとコマはその胴上げの様子を描いて締めくくりました。それと、野村監督の胴上げの絵の下に、その年に退団する選手も描いたんですよ。その並びに僕の顔も描いて、「僕も野村監督と一緒にこのチームを去る!」という意思表明も記しました。隙間なく横並びにして繋げると7mになりました。だから僕としては「やりきったな!」という気持ちで、野村監督に出来上がった版画集を渡しに行きました。その時にまたコメントを書いてもらって、あの時の欠けた一文ではなかったんですけど、その欠けた一文に含まれていた「人生」という言葉が入っていて、監督は特に何も考えていらっしゃらなかったと思うけれども、その言葉を導き出せたことに意味があったと思っています。それでこの作品を《プロ野球画報》というタイトルにして、これは作品としてきちんと世に出そうと、翌年の「岡本太郎現代芸術賞」に出品しました。
僕は東北出身ということもあり、仙台に新球団が誕生するということがとても嬉しかったんです。楽天はイチから立ち上げた球団だったので、他の球団から漏れ出た選手をとにかく集めた寄せ集め球団だったんです。その当時僕は小平市に住んでいて、西武球場が近いので見に行ってみたら楽天側の応援席はすかすかで、勝ち投手のインタビューなんかも1試合勝ったくらいで泣いたりしていて。それを見たらなんだか自分と重なって見えて、応援したいと思ったんです。それで楽天の試合を見始めて、2年目で野村監督が就任したんですけど、その時野村監督は「V9時代(*3)の巨人を目指す。3年で花を咲かせる。」と言ったんですよ。当時の僕は『三十路のビール』の手応えをもって、ものを見て描くということを一からまた始めようとしていた時で「じゃあ僕も楽天の試合を見続けながら3年でまともな絵を描けるようになろう」と思ったんです。
(*2)野村大学:ながさわ氏の造語。野村監督の東北楽天イーグルスの在籍年数が4年間だったことと、ながさわ氏が就任時から毎試合見てきたというところもあって大学に例えている。
(*3)V9時代:読売ジャイアンツが、王貞治、長嶋茂雄などのスター選手の奮闘により、1965〜1973年まで9年連続でプロ野球日本シリーズを制覇した時代。
◾️野村大学を無事卒業された後、東京ヤクルトスワローズで同シリーズを描き、こちらも大きな注目を集められましたが、楽天からヤクルトへ転向した理由を教えてください。
楽天に、球団の立ち上げ時のドラフト1位指名で獲得した一場靖弘という投手がいたんですけど、彼はチームにとっての希望だったんですよ。当時の楽天ファンは、みんなこの選手の姿に自分を投影して応援していた筈です。当然《プロ野球画報》の19枚には1枚ごとに一場選手が登場する心づもりでいたのですが、開幕してすぐにトレードでヤクルトへ出されてしまい、一場選手の姿は描けなかったんです。なので欠けている彼の存在を追って、2010年シーズン前に《プロ野球画報》を抱えてヤクルト球団事務所へ行き、「今年これと同じことをヤクルトでやらせてください」と伝えたんです。そこから僕のヤクルトの時代が始まりました。
2010年から6年間、色々と描き方や手法を試しながら、どうやったら絵で戦力になれるのかを考えながら2015年に優勝するまで描き続けましたね。現在のペンと色鉛筆で描くスタイルは、ヤクルトの3年目から始めました。1年目に仕上げた銅版画を神宮球場で練習後の選手に渡していたんですけど、モノクロの銅版画のウケが良くなかったんです。一見、何が描かれているのか分からないみたいで。2年目に色が使えるシルクスクリーンに変えたんですけど、時間的に2色刷りが限界でした。それでもチームは、セ・リーグ2位まで躍進したんですね。そこで優勝するための最終手段として版画であることをやめ、色を塗るという決断をしました。
現在FC町田ゼルビアでもシーズンの最後に全選手を描いた年間ポスターを制作しているのですが、これはヤクルト時代から作っています。当初は全選手の顔だけを描いたポスターを作っていて、シーズンが終わったら選手に渡しに行っていたんです。さらに展覧会をやった時に来場者の人にも無料で配っていたんですけど、その時もらってくれたヤクルトファンのおばちゃんが、僕の作ったポスターに選手のサインを入れてもらうというのをやり始めたんです。それからしばらくして、選手のサインがたくさん入ったポスターを持ってきて、「こんなのできたよ」と言って見せに来てくれたんですよ。見てみると、その時々によって書いてもらっているペンが違うからサインの太さもバラバラで、紙もボロボロになってきてるんだけど、そこにはその人と選手とのやりとりが詰まっているから、それが本当にすごく良くて感動しました。サインを集めようと思うと、1回や2回じゃ揃わないから、何度も練習場に行って地道に集めたんだと思うんですよね。後々、自分の展示の時にそのポスターを飾らせてもらったりもしました。僕は、あのおばちゃんのポスターは間違いなく“作品”だと思いますし、あれを越えるものを作りたいですね。
また、当時はプロ野球以外のことを取り組む時間もなかったので、展覧会は野球の絵だけ。なので普段ギャラリーに来ないような人もたくさん来てくれました。僕の展示を見て、そんな客層の人たちが何か美術を考えるきっかけになればいいなと思っていたんですけど、ヤクルトを描かなくなった途端、ヤクルトファンの方の来場がガクッと減ってしまったので、この問題はまだまだ難しいところです。でも、野球ファンの方の中にも僕の活動を理解してくれて、自分なりの美術の楽しみ方を見つけて作品に接してくれている人が少なからずいらっしゃるので、今回の展覧会もそういう場になればいいなと思っています。
◾️楽天そしてヤクルトの応援を通して、とてもドラマティックな年月を過ごされてきたんですね。そんな中、プロ野球からサッカーチームであるFC町田ゼルビアを描き始めたきっかけはなんだったのでしょう?
2016年の夏に、町田の版画美術館から「展覧会をやってほしい」という打診がありました。その時に「どうやら町田にはJ2のクラブチームがあるらしい」と初めて知りました。そこで思い切って町田に引っ越して、今に至ります。
応援を形にすること、そして応援は戦力になるんだ!と信じてやっています。このシリーズは、出場した選手はもちろんですがシーズン中に移籍してしまった選手や、試合には出れなかったけれど在籍している選手も描いています。ヤクルト時代と同様に、今もシーズン終わりに選手にポスターをお渡ししているんですが、昨年、途中で移籍してしまった選手に完成したポスターを送ったら、選手から直々にお礼の電話がかかってきたんですよ。「途中でいなくなってしまったのに、こんな風に描いてくれて嬉しい」と言ってくれて、その感想が本当に嬉しくて、作っている甲斐があったなと思いましたね。
J1昇格を決めた時、こんなことが可能なんだって震えました。町田に引っ越してきて1年目は、正直J1なんて夢物語でしたから。当時はまだクラブハウスもなかったし、スタジアムも不十分、J1昇格への土台作りがまだできてなかったんです。あれから7年でここまできて、本当に達成感があります。そして、やっぱりJ1という舞台は町田市民にとって、とても大きいことだと実感しています。今年一年を見てもサポーターの数が増えて、街が活性化しているのがよくわかります。街にサッカーのクラブチームがあるというのは、その街をひとつにするフックになると感じています。これからもっと根付かせるためにも、やっぱりJ1に居続けなきゃいけませんね。(笑)
下:FC町田ゼルビア2024 ポスター
◾️本当にひたすらに絵と向き合っていらっしゃる姿、そして作品一線一線からながさわさんのその気持ちや想いがみなぎっているのを感じます。ながさわさんが絵を描く原動力となっているものはありますか?
本質的には絵を描くことで人と交わりたい、交流したいというのがあります。反面、絵を描かないと自己肯定できないという部分もあるのかなと思います。自分に自信がないけれど、絵を描いて、人と絵を通じて交流すれば、何かしら自分の作品を受け止めて反応してくれる人がいるということを感じたいということなのかもしれません。自分は絵で応援したり気持ちを伝えたりしていますけど、僕自身も誰かに応援してほしいのかもしれませんね。やっぱり人に褒められたら嬉しいので。(笑)
応援や交流の方法は、誰しも自分なりのやり方というのがあると思いますし、各々がそれを見つけられたら面白いですよね。ゼルビアも同じで、僕の場合は「絵で応援する」というスタイルをとっているというだけのことです。毎試合絵を描くことが応援であって、その一緒に戦ってる姿を公にすることは、美術の面白さや、そこへの興味、理解を広げることにも繋がると思いますし、みんなのそれぞれ違った応援の形がもっと見えてくれば、そこから文化の広がりも生まれるんじゃないかと思っています。僕はこの「絵で応援する」というスタイルも、ただ「応援」の括りに当てはめるだけではなくて、「芸術の在り方」の一つだと思っています。そうすると、芸術ってそんなに堅苦しい、難しいものじゃないというのがわかってくると思うんです。だから、絵でコミュニケーションを図るという行動そのものが僕にとっての美術活動であり、これも美術の在り方のひとつであるという証明にしていきたいです。今回の展示でも、見てくれた人に何かしら感じ取ってもらえるものにしたいですね。
◾️最後に、来場者の方へ一言お願いします。
どなたが来ても、どこかで自分自身とリンクする展覧会になっていると思いますし、来てもらったらそれなりに楽しめる内容の展示になっています。また、今回制作したゼルビアのポスターは、シーズン中の各試合を描いた中から全選手をピックアップして再構成したものなので、それぞれの原画と照らし合わせて見るのも面白いと思います。ポスターは会場で無料配布しますので、是非持ち帰って部屋に貼って楽しんでください!
ながさわたかひろ プロフィール
1972年、山形県生まれ。武蔵野美術大学油絵学科卒業、同大学院造形研究科美術専攻版画コース修了。
2010年、野村克也監督の最終年であった東北楽天ゴールデンイーグルスの全試合を銅版画で描き綴った『プロ野球画報』で「第13回岡本太郎現代芸術賞(TARO賞)特別賞」を受賞。
著書に『プロ野球画報2015東京ヤクルトスワローズ全試合』『に・褒められたくて/版画家・ながさわたかひろの挑戦』等。2017年、町田市立国際版画美術館で個展「絵描き・ながさわたかひろ、サッカー・FC町田ゼルビアでブレイク刷ルー!」を開催。