町田まわるまわる図鑑 〜パリコレッ!ギャラリー・アーティストインタビュー〜 <アーティスト:ムッシュトクオカ>

開催:2022年1月9日(日)

町田で月イチでアートが楽しめる「パリコレッ!ギャラリー」。
第17弾は相模原市在住のアーティスト:ムッシュトクオカさんです。
パリに20年近く通い続け、街中を歩き回り切り撮った”パリの日常”の数々。
今回はパリオで写真展を開催するにあたり、お話を伺いました。

●今までの経歴を教えてください。
僕は本業はブロカント屋、つまり古物商、そしてたまに写真家です。
若い頃は映画会社の外資系の宣伝部にいたこともあります。『男と女』って映画あるでしょ。あれに影響を受けて、大学は映画に進んだんだけど、今思うと写真に進めば人生違ったかもね。映画の道はシナリオが書けないから無理だな~と思って、売る方にいってしまったんだよね。映画評論家の水野晴郎さんっていたでしょ。あの方の下で働かせてもらってて。あの人は原題に素敵な邦題をつけるのを流行らせた人で、厳しいけど凄い人だったね。

●珈琲専門店をやっていた頃もあったとか?
映画の仕事を辞めてから、珈琲専門店を国分寺で10年程やっていたんだよね。当時はカフェブームなんていうのもなくて、1970年代後半から80年代はちょうど素人が珈琲専門店をやるはしりだったんだよ。その頃は国分寺には若者が集まる店も少なくて、珈琲専門店っていうのは世間的には水商売っていう扱いでめずらしかったんだよね。珈琲自体も今ほど日常的な飲み物でもなかったしね。
その当時、珈琲以外にアルコールや食事を出す純喫茶っていうのはあったけど、純喫茶は珈琲はブレンドとかミックスを出していた頃で、珈琲専門店のような豆の種類をストレートで飲ませたり、モカやブルマンなんていうのが売りになる時代の幕開けで、僕の店の周りにもどんどんそういう店がでてきたよ。僕の店は、なんとなく気に入って居付いちゃう人や毎日通うような人がいて、学生バイトも10年間で100人くらいいたんじゃないかな。当時は珍しい週1とかもローテーションのバイトで入れていたから、『日替わりサービスは○○ちゃんね』って冗談言うほど、毎回いろんなバイトが入っていたね。なんとなく人が遊びにきて楽しんで、帰りがけにお金を置いていく、そんな風にいつのまにかなっていたね。

●珈琲が珍しい時代に珈琲専門店を始めたのはなぜですか?
親父がホテルマンで、子どもの時から洋間で椅子とテーブルでフレンチトーストを食べるような家で、珈琲も日常的によく飲んでいたからね。珈琲専門店は親父の夢だったんだよ。僕の血は洋風かぶれで、おじいちゃんも『アントニーとクレオパトラ』っていうイタリア映画を最初に輸入した、まさに洋風かぶれの先駆者みたいな人だったんだよ。浅草に電気館、築地に東劇、新宿に武蔵野館、そして神楽坂におじいちゃんのやっていた牛込館という映画館があった。だから親父を辿るとそのルーツは全ておじいちゃんで、当然僕も洋風かぶれ。今の古物商の仕事では酒とたばこと珈琲を扱っているんだけど、それも子どもの頃から家に外国の灰皿が普通にあって、子ども心にそれがかっこいいと思ったんだろうね。

●小さい頃から外国文化や映像が身近だったようですが、写真との出会いはいつからですか?
写真は子どもの頃から日常的に撮っていたなぁ~。中学生くらいのときかな、『オリンパスペン』っていう、ハーフサイズで72枚撮れるカメラを親父に買ってもらったんだよ。ボタンを押せば誰でも撮れるカメラで、3m以上ピントが全てあって、100分の1秒のシャッターがきれて、それでいつも撮っていたなぁ。映画も写真もだけど、僕の人生すべて映像。僕にとって写真は自分の感覚的なもので、言葉はすぐなくなっちゃうけど写真は残る。写真は僕の目を通した具体的な証拠というか、よく言うんだけど“記憶にない記録”ってね。写真の撮る一瞬って1秒間のうちの何分の一で、記憶にも残っていないような一瞬なんだよ。今はスマホがあるからありがたいなって思うね。日常的を報道するように写真を撮っているよ。前はフィルムカメラを持ち歩いてたんだけど、カメラを持っていると無意識にその区画で切り取って見ちゃうから疲れちゃうんだよね。

●パリの日常はどんなカメラで撮ったものですか?
パリの日常はフィルムカメラのペンタックスMZ5で、僕の片腕だね。パリ時代は全部それ。当時フィルムカメラはいろんなものがあったんだけど、形がよかったし軽かったんだよね。僕の唯一のこだわりは形だね(笑)
“失敗は成功のもと”で、フィルムは失敗するから上達するんだよね。写真家の森山大道さんが『量を撮らないといい写真は撮れない』って言ってたけど、僕の場合はもう少し砕けて『数打ちゃあたる!』なんてね(笑)とにかく撮るしかないんだよね。

●本格的に写真を撮り始めたのはいつ頃からですか?
珈琲専門店を辞めたあと画商になろうと修行して、パリにリトグラフを買い付けに行き始めたんだよね。その当時付き合ってた彼女のカメラを借りて、たまたま乗ってた地下鉄の反対側の光景を撮ったんだけど、その写真を見た時に『やっぱり写真だ!』って思ったんだよね。それから、買い付けと写真がパリの目的になっていって、パリに行く度に帰国したらアテネ・フランセで写真の展示させてもらうようになったんだよ。その頃から、メインが写真なのか買い付けなのかになってきたかな。僕のパリデビューが1991年からで、アテネ・フランセで展示を始めたのが1997-8年くらいだから、40代後半くらいになってから本格的に撮り始めたね。パリは年に2回3週間くらい滞在したかな。土日は趣味の骨董市回ったり、とにかく街中歩き回って疲れたらバスに乗って、わからなくなったら地下鉄になって帰ってくる。そうやって歩き回って写真を撮ってると、神様からのご褒美だね、年1回あるかどうかの一枚が撮れるんだよね。
アテネ・フランセ・・・民間の一番古いフランス語学校。

●今回のタイトルに“パリ21区”ってありますが、実際にはパリは20区までですよね?
僕はパリで1年とか3ケ月とか生活していないから、向こうで経験してきたことって帰国すると『あれって現実だったのかな、やっぱり夢だったのか』って、まるで映画の中にいたかのように、帰国後ぼーっとしちゃうんだけど、何か月経つとその空気が抜けちゃうんだよね。でも、写真には残っていて。だから写真はいわば夢の証拠写真なんだよね。つまり“夢と現実(うつつ)”の間、それがパリ21区なんだよね。

ここ数年アートコンテストに出展されてますが、なにかきっかけがあったんですか?
僕の写真は業界の中では異端で、はぐれ者なんじゃないかな。素人とプロの境目って難しいよね。今はカメラがいいから、ある程度誰でもそれなりのモノが撮れるし。2年前にアートコンテストにだしたのは、僕にとっての腕試しで、プロの審査員がどういう風に僕の写真を見えるか知りたくて。そしたらプロの目に留めて頂いて教育長賞をいただいた。僕の中で素人もプロもあまり線引きはなくて、いい写真はやっぱりいいんだよね。

最後に、来場者の方へメッセージをいただけますか?
やっパリ僕は巴里が好きなんです。って、冗談だけどほんと!僕の好きなパリをみてくださいっていう感じかな。僕にとってパリに行くっていうのは恋人に会いに行くようなものなんですよ。僕の血が洋風かぶれだから、パリの何が好きかって言われちゃうと困まっちゃうんだけど、フランスは自己主張の国だし、それを受け入れてくれるんだよね。全てがおしゃれで、歴史があって本物。イギリスやドイツは固く感じちゃうけど、フランスは柔らかい。アメリカのパワーにはついていけないけど、フランスはなんかついていけた。感覚的に好きなんだと思う。
そうだな、、、見た人がどうかさっパリでありませんように!(笑)

ムッシュトクオカ プロフィール

1946年東京生まれ。1972年カフェ寺珈屋を開業。サブカル発信スポットとして、若者たちの熱い支持を得る。1990年代よりパリへ通い、買付の傍ら写真を撮り始める。2002年東京アテネフランセで作品発表し、本格的に写真作家活動を始める。
▶︎Instagram 

パリコレッ!ギャラリー vol.17
ムッシュトクオカ
「PARIS:巴里:パリ」~パリ21区の日常~

1990年から幾度となくパリを訪れるムッシュトクオカが切り撮ったパリの日常のワンシーン。"パリ21区"は、パリを想う彼の恋心と、それを受け止め快く反応してくれるパリの街との相思相愛の関係によって創りあげられた"夢と現実(うつつ)"の隙間に存在する愛しのパリの街である。

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